昭和30年頃、「三角ベース」という野球が流行っていた。ピッチャーが投げたワンバウンドの軟式テニスボールを拳で打つのであった。
三塁がないので塁(ベース)が三角形になるのだ。何しろ狭い神社の広場でプレーするのでいろいろなトラブルが生じるのである。
大きなフライを上げれば松の木のてっぺんに引っかかって落ちてこなかったり、塀を超えて民家の屋敷内に入ってしまったり子どもながらもぺこぺこ頭を下げて取り戻してもらったり、ホームランを出せば堰(ドブ)を超えて田んぼの中に入ってしまう。
球を探すのに容易ではなく、試合も一時中断する。
一番嫌だったのはキャッチャーがエラーをすると、これも民家の外便所の肥溜めに落ちてしまう。
棒切れ2本で拾い上げるのだが不安定なため、何度も落っこちる。
そのまま使うことができず、水洗いするのだが臭いが取れない。それでも我慢して再試合をするのだった。
でも僕ら“ガキペラ”にとっては楽しい遊びだった。
(写真は、昔遊んだ近所の金華山神社のお祭り:昭和55年5月5日)
投稿者:Sakurai Kazutoshi
shakuhachi@hotmail.co.jp
昔、上山市には、2軒の映画館があった。
もう一軒は、駅前通の「国際劇場」である。
まだテレビも無い時代、我が家では、家族みんなで年数回は映画を見た記憶がある。
映画好きの私は、国際劇場では、よく他の家族の一員になりすまして中にタダで潜り込み、
ひとりで映画を何本も見た。
家から近かったせいもあるが、散歩がてらに映画館にもぐりこんだものだ。
中学、高校となると、潜り込むこともならず、金を払って見たが、よく行くようになったのは
トキワ館の方である。
ここは、二階が畳敷きになっていて、脚をのばして寝転びながら映画を見ることが出来るという
きわめて癒される珍しい空間なのであった。
しかし、その分、いびきをかいて寝ている者や、またはアベックで怪しげな行為をしていると
いう魑魅魍魎ともいえる世界でもあった。
国際劇場はTVの時代に入ってから、ずっと前に閉館され、建物のかけらも残ってないが、
トキワ館の方は、映画館はもう二十数年前に閉館になってはずだが、建物だけは今も上山市の
新湯通りに、当時の面影を残して建っていた。
この建物も、いずれ壊されるのであろうが、こうして、地方の町から映画館の歴史は消えていく
のである。
トキワ館は、私の青春時代の、一ページでもあるのです。
昭和中期頃(昭和40年)までは、どこの家にも火鉢がありました。
田舎に行けば、囲炉裏がまだ見受けられたものです。
この火鉢に炭を熾(おこ)すことから、朝がはじまるのでした。
夜は、炭火を消さずに、灰を上にかけて、熾き火として残しておきます。
冬もコタツのほかは、この火鉢だけでしたから、ほとんどの人は寒さと冷たさで、シモヤケになったものでした。
でも楽しい思い出もあります。
それは、餅を焼くときです。
また、灰ならしというゴテと呼ばれるものがあり、それで波模様に灰をならして遊んだのも楽しい思い出となっております。
家の中にも、猫がいるのが普通で、この家の障子戸にも、猫の抜け道があるのが面白いと思います。
昭和40年頃の写真です。
高校卒業後、兄は山形から横須賀の海上自衛隊学校に入隊しました。
その卒業後、青森県の大湊に配属されましたが、その途中に里の山形へ帰ってきたときの写真です。
従兄弟で、同級生でもあったKさんの自宅前での写真です。
この写真には、思い出が強くあります。兄の話です。
横須賀から、東北の山形まで、この制服で汽車に揺られて来たそうなのですが、山形に近づくにつれて、この制服が目に付くのか、他の乗客からじろじろ見られたそうです。
兄は、自分が自衛隊員だという意識が強くなってしまい、変は格好は見せられないと思い、結局、10時間も立ったまま、座らずに山形まで来たそうです。
もちろん、わが家族も、いや、町内の人も、海軍服を着た人を見たことはなかったので、非常に珍しい思いで、兄を見回したものです。
責任感の強い、そういう兄でした。
その兄も、今はもういません。