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僕の昭和ノート

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[ 2013年 7月 18日 | No Comment | 1,516 views]
mizuabi-kawara

7月も中旬、そろそろ夏休みに入る頃。
水泳の許可がお昼の学校放送から流れると、すごい歓声が周りの教室から聞こえた。
放課後が待ち遠しくてたまらない。
午後の授業なんかもう上の空。気持ちはもう水浴びのことで頭がいっぱい。
近所の友人たちと前川へ急ぐ。土手向こうの川から泳いでいる子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。
ジリジリと照りつける真夏の太陽。
川の匂いと共に駆け上がりから落ちる水の音が聞こえてくる。
土手に上がるとたくさんの子供たちがドボン、ドボンと水しぶきを上げながらはじけるような奇声を上げて泳いでいる。

(イラストは、上山市金生地区にある「東宮橋」からの飛び込み。)
カラフルな女の子の水着、男の子はたいてい黒色の褌(ふんどし)だった。
準備運動は必ず行ったもので、次に耳孔に脱脂綿を詰めるのだが唾液を流し込むのが常だった。
すぐ水に入らないで胸、頭そして体全体に水をかけてから水中に入る。始めはとても冷たく、やがて慣れると温かく感じてくる。
程よく泳いでいると唇が紫色に変色する。チアノーゼだ。しばらく休憩を取る。
駆け上がりの下の大粒の石に腰を掛けるとやけどをするほど熱かった。
周りにある泥岩の欠片を拾ってきて水を付けて他の平たい石と擦るとどろどろとした“絵具”ができる。それを友人から背中にペイントしてもらう。見事な“作品”もあれば、とんでもない笑いのタネになるものも描かれる。
自分には見えないのである。
誰かが「マゴダラムス居だー!」と叫ぶ。ヘビトンボの幼虫(マゴタロウムシ)である。この虫は顎が発達しており、咬まれると赤く腫れ上がるから要注意だ。私は咬まれたことはないが、近くに現れて逃げようとすると水流に引き込まれて追いかけて来るのでとても怖かった。
泳ぎ疲れて家路につく。耳に入った水が取れないと頭の中で“太鼓が鳴る”。
ばい菌に冒されれば中耳炎にもなり兼ねないが、一度も罹ったことはない。
家に帰った後で食べるスイカや氷水は格別に美味しかった。
(寄稿者:桜井和敏)

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[ 2012年 1月 4日 | No Comment | 4,188 views]
昭和37年(1962年)頃の雪下ろし(上山市)

上山駅の東側。今の矢来4丁目(当時は矢来二丁目)の雪下ろし光景です。
当時(1962年)の上山市内では、どこの家でも、冬の間は平均で2回ほど雪下ろしをしていました。
遠く背景には、駅裏の今の美咲町の辺りが写っています。
当時は田んぼでした。
何といっても珍しいのは、駅裏から蔵王坊平の硫黄鉱山へと続く鉄索の木製の塔が写りこんでいるところでしょうか。
知る人にとっては、懐かしい風景かもしれません。

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[ 2011年 11月 15日 | No Comment | 4,146 views]
トニーザイラーが見た昭和34年の上山小学校-上空写真

トニーザイラー氏が初来日して、松竹映画「銀嶺の王者」ロケーションのために蔵王スキー場へ来ることになったとき、山形県蔵王スキー場に入る前に、麓にある温泉町、上山(かみのやま)温泉の旅館に泊まった。
昭和35年(1960)の撮影とあるから、その年の冬1月か2月の頃だと思う。
当時、私は上山小学校の5年か、6年生だった。
その上山小学校のグラウンドに、ヘリコプターが舞い降りて、その中から降り立ったトニーザイラー。
当時はもう世界的に有名人で、学校内でも知らない人はいない状態だった。
待ち受けた市長が花束を渡して握手する。
校長も握手して挨拶し、その後に、全校生徒代表として、振袖姿の和装で、花束を渡したのは、同級生で、トニーザイラー氏が泊まる旅館の娘さんの原田さん。
その後、原田さんは、2千3百名の全校生徒代表として、ヘリコプターに乗って学校上空を旋回したでした。

ヘリコプターを目の前に見たのも初めてだった私は、その轟音と迫力に気圧されながらも、原田さんを羨ましく思って眺めた記憶がある。
トニーザイラー氏も、原田さんも、こんな上山市内と、上山小学校の姿を上空から眺めたのでしょうね。
その当時の写真が、アルバムの中から出てきたので、スキャナーでPCに取り込み、「アルバムの中の昭和」に投稿してみることにしました。
53年前の写真です。
学校はもちろんもうかなり前に改築されていて、当時の姿ではありません。
でも、学校の周辺も含めて、時代を感じさせる貴重な記録映像となりました。

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トニー・ザイラー。オーストリア出身、1956年イタリア・コルティナダンペッツォ冬期オリンピックで、回転、大回転、滑降で金メダルを獲得し、アルペンスキーで史上初の三冠王になった。
その後、甘いマスクで俳優になり、「黒い稲妻」(58)、「白銀は招くよ!」(59)、「白銀に踊る」(61)など、スキー映画に主演して人気を博すとともに、世界中にスキーブームを巻き起こした。とくに、「白銀は招くよ!」の主題歌は大ヒット曲となり、日本国内にもスキーブームを招いた。
昭和35年(1960年)に松竹映画「銀嶺の王者」ロケーションのため蔵王温泉を訪れ約1か月間滞在し、蔵王の魅力を国内外に広めた。
2009年8月24日、オーストリア・インスブルック市で73才の生涯を閉じる。
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◆2011年10月28日、「トニー・ザイラー氏」の顕彰碑が、山形県蔵王温泉スキー場・パラダイスゲレンデ内に建立された。

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[ 2011年 10月 20日 | No Comment | 4,390 views]
アルバムの中の昭和 「踏切編」(昭和30年代頃)

その① 私の実家は上山駅付近にあったので、矢来の踏切に汽車をよく見にいった。
特に貨物列車の連結作業が面白く、飽きずに眺めたものだ。
停止しているとき機関車に乗せてくれるよう何度もお願いしたがいつも断られた。
ある時、もう顔なじみになっていた運転手が「一回だけだよ」と私の友人と二人を機関車内に乗せてもらえた。

(写真は、上山市矢来二丁目の踏み切り:昭和50年代中頃)
有頂天になって乗り込むと、見たことがない運転席の周りの複雑な構造にびっくり仰天。幸いもう一回の連結が残っていたので、動く機関車に乗れたのだ。
私は石炭をボイラーにくべる作業を手伝い、友人は鎖の綱を引っ張ると「ボォー!」と汽笛が鳴った。
機関士と一緒に二人はレバーを引っ張ると機関車が徐々に動き出した。
何とも言えない戦慄に胸がときめいた瞬間であった。
翌日学校で一部始終を誇らしげに級友に語って聞かせた少年時代。

その② 上りの貨物列車が上山駅から出発して矢来の踏切を渡り終えるまでには、多分3~4分を要しただろうか。
踏切の遮断機が下りてきたところに丁度三輪トラックが到着し停止した。
その運転手は機関車のドラフト音(シュッシュッポッポ)に合わせてクラクションを鳴らし始めた。腹いせかそれとも退屈しのぎだったのだろうか?・・・・・

その③ 例の踏切で怪事件が起こった。
何でも小型三輪ミゼットに運転手が乗ってないのに踏切を通過して行ったというのだ。
このことが矢来三丁目の人々の話題となり、“無人の三輪ミゼット”の目撃情報があちこちから持ち上った。
当時「透明人間現る」という映画が上映されていただけに人々は恐怖に慄いたことだろう。
後日、真相は近所に住む背の小さい中学生であることが判明した。
その④ 例の踏切に手動の遮断機(木製の長い棒)が上下線側にそれぞれ1本ずつ取り付けてあった。
一方の遮断機に連動し他方もそれに伴って動く仕組みになっている。
踏切番(上山駅員)二人が交代で仕事をしていた。
その一人に右腕が無い踏切番がおり、よくも片手であの力仕事をやってのけたものだと感心する。
棒につかまって持ち上げられたことがあり、叱られたこともあった。
(写真は、上山市矢来二丁目の踏み切り:昭和50年代中頃)
■投稿者:Sakurai Kazutoshi
shakuhachi@hotmail.co.jp
(「@」は全角にしてあります。)

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[ 2011年 10月 19日 | No Comment | 1,344 views]
昭和55年の金華山神社(上山市)の祭り光景

昭和30年頃、「三角ベース」という野球が流行っていた。ピッチャーが投げたワンバウンドの軟式テニスボールを拳で打つのであった。
三塁がないので塁(ベース)が三角形になるのだ。何しろ狭い神社の広場でプレーするのでいろいろなトラブルが生じるのである。
大きなフライを上げれば松の木のてっぺんに引っかかって落ちてこなかったり、塀を超えて民家の屋敷内に入ってしまったり子どもながらもぺこぺこ頭を下げて取り戻してもらったり、ホームランを出せば堰(ドブ)を超えて田んぼの中に入ってしまう。
球を探すのに容易ではなく、試合も一時中断する。
一番嫌だったのはキャッチャーがエラーをすると、これも民家の外便所の肥溜めに落ちてしまう。
棒切れ2本で拾い上げるのだが不安定なため、何度も落っこちる。
そのまま使うことができず、水洗いするのだが臭いが取れない。それでも我慢して再試合をするのだった。
でも僕ら“ガキペラ”にとっては楽しい遊びだった。

(写真は、昔遊んだ近所の金華山神社のお祭り:昭和55年5月5日)
投稿者:Sakurai Kazutoshi
shakuhachi@hotmail.co.jp

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[ 2011年 8月 26日 | No Comment | 3,117 views]
トキワ館 (上山市新湯通り)

昔、上山市には、2軒の映画館があった。
もう一軒は、駅前通の「国際劇場」である。
まだテレビも無い時代、我が家では、家族みんなで年数回は映画を見た記憶がある。
映画好きの私は、国際劇場では、よく他の家族の一員になりすまして中にタダで潜り込み、
ひとりで映画を何本も見た。
家から近かったせいもあるが、散歩がてらに映画館にもぐりこんだものだ。

中学、高校となると、潜り込むこともならず、金を払って見たが、よく行くようになったのは
トキワ館の方である。
ここは、二階が畳敷きになっていて、脚をのばして寝転びながら映画を見ることが出来るという
きわめて癒される珍しい空間なのであった。
しかし、その分、いびきをかいて寝ている者や、またはアベックで怪しげな行為をしていると
いう魑魅魍魎ともいえる世界でもあった。
国際劇場はTVの時代に入ってから、ずっと前に閉館され、建物のかけらも残ってないが、
トキワ館の方は、映画館はもう二十数年前に閉館になってはずだが、建物だけは今も上山市の
新湯通りに、当時の面影を残して建っていた。
この建物も、いずれ壊されるのであろうが、こうして、地方の町から映画館の歴史は消えていく
のである。
トキワ館は、私の青春時代の、一ページでもあるのです。

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[ 2011年 7月 2日 | No Comment | 882 views]
店の前で家族の写真(昭和30年頃)

戦前、父は樺太で警察官をやっていた。
その父は、引き揚げ後、警察官を辞めて、商売をはじめた。
それが牛乳店である。
この写真は、その牛乳店の前で撮った昭和30年頃の写真である。
牛乳店をはじめて2年後くらいの写真だ。
当時の父は44歳頃。母は38歳である。

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[ 2011年 6月 29日 | No Comment | 995 views]
僕のアルバム整理

昭和41年の写真です。場所は横浜市の三渓園での一コマです。
その時代、ボクは学生でした。
タンスの中にしまい込まれた古いアルバムは、誰にも見向きもされず、所有者が亡くなれば、いずれは捨てられる運命を持っているものです。
でも、それらに光を当てることができる時代になりました。
つまり、デジカメの出現です。それと、その素晴らしい解像度の発展です。
そのデジカメで古いアルバムの、古い写真を撮り、それらを再活用できるのです。
みなさんも、タンスの中の古いアルバムをさあ取り出しましょう。
そして、その中の、昭和の記録をみんなで共有しませんか?
また、共に昭和を語り合いませんか?

■YouTubeにも載せてしまいました。(挿入歌:加川良「下宿屋」)